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まちサポくさつ (公財)草津市コミュニティ事業団

団体インタビュー

今の社会だからこそ、意識して「開けとく」

良覚寺(矢橋)住職 谷大輔さん

寺は公共施設

 良覚寺は500年前に「矢橋西道場」として誕生したとされています。ここもそうですが浄土真宗の寺の多くは、念仏道場と言って、「この教えなら自分も生きていける」と思った地域の人たちが「念仏を聞いて自分の人生を確かめる場所」として、自主的に土地や材料、労働などを提供しながら作った施設として始まったものが多い。今で言う公共施設に似てますかね。だから寺は「門徒のもの」という考え方が根底にあります。

知ってることって、ごく一部

良覚寺(矢橋)住職 谷大輔さん  元々サラリーマンで結婚して住職になりました。住職になるための学校で「仏教とは君の考えているような狭いものではない。葬式や法事を通して知っている寺と言うのは仏教という大きな世界のごく一部だし、君の出会っているお坊さんもごく一部。たくさんのお坊さんに出会ってきなさい。」と繰り返し言われて、自分が仏教に持っていた先入観が少しずつ壊れていきました。こうしてたくさんのお坊さんに出会えたことが良かったなと思います。

お寺でする世間話

矢橋・良覚寺の大屋根  50年くらい前。若いお坊さんたちが集まる仏教青年会が「お寺さんにできることは何か」と考え、最初に実践されたのが日曜学校。良覚寺でも先代の時には日曜学校に端を発し、近くに公立の保育園ができるまでは保育園をしていました。農繁期はどの農家も子どもを看てあげれない。それで子どもを寺に集め、読み書きを教えたのが日曜学校です。地域の暮らしやリズムに理にかなっていた。お寺さん系の保育園があるのはその流れです。
 
 また良覚寺では毎月「覺の会」という学習会をしています。学習会といっても地域の人に寄ってもらい、お勤めをし、講話を聞いていただいたあと世間話をするだけ。でも「お寺」という場でする世間話というのは、普通の世間話とは少し違う気がするんですね。集まる人たちはは同じ地域に住んでいるけど、年代も性別も重ねた経験も違う。そんな人たちが寺が触媒になって集まり、仏さんの前で自分が経験したことや、感じることを喋ったり、今、世の中で起きていることを話し合ったりする。世間話といえ、こうして様々な背景を持った人たちが寺を核にして時間と空間を共有することで何かが生まれてくるのではないかなと思っている。ちなみにこの会はどなたでも参加できます(笑)

南学会

 先代の住職と出会うことのなかった私は特にそうかもしれないが、お坊さんをしていると、お坊さんならではの悩みとか「ああしたいけどできない」といったようなことが結構あるものです。門徒さんや家族にも相談できない、孤独な部分ですね。日本にはたくさん寺もあるし、お坊さんもいます。でも案外と寺同士の敷居が高くて横のつながりは少ないんです。それで今から 年前に私も立ち上げメンバーとなり湖南域(湖南市から大津)の若いお坊さん 人くらいで「南学会」をつくりました。共に学ぶ場、本音で語り合う場としての勉強会です。基本は学習、コミュニケーション、つながりです。共に学びをしていることは大事だと思います。何かをしていくときにも、学びを一緒にしている者と、急に集められた者とでは全然違う。まだみんな 代と若いので、これから何かをしていこうとするときに、このような関わりがあると違うと思っています。
 
 この南学会でも「寺として子どもたちと今どのように関わっていくのか」というのが問題になっています。「(仏教)子ども会」というのを強く言うお坊さんも多いし、私もそう思っています。学校だけでなく、地域の中での子どもの学びが必要。宗教教育ほど大げさでなくて、子どもらが抱えている悩みをちょっと聞いてみるとか、お勤めを一緒にするとか、そういったことができればなと思っています。子どもの学びには行政だけではできない部分があるんです。

本当に寺を必要とする人に

良覚寺の門前  「お寺は敷居の高さ」は寺同士だけの話ではありません。住職になる前の自分がそうだったように、ある意味の「敷居の高さ」を感じてる地域の人たちも少なくありません。
 少なくとも今生きていて本当に苦しんでいる人と寺が関われているかと言えば絶対にそんなことはない。寺側もそのような方が地域におられることを薄々知っていても、ずっと関わりを持たず、亡くなられたときの葬式が最初の関わりとなってしまう。とりわけ社会的に弱い立場に追いやられた方々のことが気になります。
 隅みずみまで言わないとしても、本当に寺を必要とされている人に目を向ける寺の運営が大事でないか。「負け組」と言われ、生きることに疲れたり、図らずも色々な縁に立ち切れてしまった方々に声をかけれるようなことがあったらなと思います。人や人の生に関わるのが寺なんです。現状では、その人が生前抱えていた問題を抜きにして、亡くなったと聞いて初めて関わる。それでは遅い。この地域にも独居老人がいるが、寺に足を運ばれる方は少ない。「呼ばれないと行けない。何か用がないと行けない場所」そんな寺の敷居を低くしていく努力が必要だと思っています。

意識して「開けとく」

(左から)寺総代の山本さん・草川さん・谷  寺とは子ども時代の寺子屋から死のお葬式まで、「生きている」ところに関わるところ。「仏教とは人間がどう生きるか」を説く教えだから赤ちゃんから、死ぬ直前、そして死後も関わるべきところだと思うんですね。経済的な社会構造の変化もあるが、今のお寺は人の生から離れてしまっているのかもしれない。

 敷居を低くする一つとして「意識して寺を開く」ことを心掛けています。月に1回だけでも開かれた場所として行う「覺の会」もそうだし、寺から離れた若い人にとっては、身近なインターネットだって意識して利用します。HPを開き、仏事のことも含めた相談にもメールでのります。今、地元の矢橋や新浜で獲れた大根を使った「ダイコ炊き」のイベントも計画しています。試行錯誤の連続ですが、複雑で、ともすると生きることに背を向けたくなる今の社会だからこそ、生と関わる寺の役割は大きい。だからこそ意識して「開けとく」ことが今のお寺さんに必要なことなんじゃないかと思うのです。

浄土真宗大谷派良覚寺
草津市矢橋町1137
電話/FAX 562-1115 
http://ryoukakuji.net

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