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まちサポくさつ (公財)草津市コミュニティ事業団

団体インタビュー

水はなくても、意味があった

堀井喜一さん(木川町) 山元國一さん(下笠町) 

ゆく川の流れは絶えていた

堀井喜一さん (堀井) 子どものころの草津川は水のない川。一年を通して30日も水が流れたかどうかっていうくらい。底は砂ばかりで、みんな「砂川」って呼んでいました。戦時中は食糧難で、草津高の東側あたりにあったグラウンドには川の砂を入れて、サツマイモを植えたと両親から聞いたことがあります。そんな「水のない川」でも、一たび大雨が降ると堤防が切れることもあって、米俵に土を詰めた土のうを慌てて大人たちが積みに行っていたことを覚えています。

(山元) 大雨の時は堤防の高さギリギリまで水が流れていることもありました。今にも溢れそうで、初めて「川は怖い」と感じましたね。

(堀井) 一週間ぐらい経つと水が膝下ぐらいまで引くんです。堰になったところや水の溜まったところで魚つかみをしました。琵琶湖から上がってきて取り残された魚です。

(山元) 小さなアユ・ハス・オイカワ…。コイなんかもいました。網や手づかみで獲るんです。その楽しいこと楽しいこと。所々、えぐられた淵に手を入れると、とげのあるギギがいて、うっかり手を刺されることもありました。そおっと手を入れ魚に触れるときのあの感触、今でも夢に見るんです。水の引く、この時だけの楽しみです。廃川になる直前くらいからかな、外来魚が増えてきたのは。

水なき川と上手につきあう

山元國一さん (堀井) 川は私たちの遊び場でした。野球でもなんでもしてましたね。雪が降ると竹そりをつくって堤防で滑りましたよ。

(山元) 中学に上がると、砂地を利用して部活のランニングです。野球部のときの川底ランニングはきつかったなぁ。とにかく、川に行くといつも友だちが誰かいましたよ。堤防には結構、木があってね、友だちと「オレはここまで上がれる!」なんて張り合ったりして。橋から飛び降りる度胸だめしもしましたね。今思えば、「よく大丈夫だったな」って思うけど、下が砂地だったからできたんでしょうね。学校では習わないことを、ずいぶんとあそこで知った気がします。

(堀井) 砂川だけど、意外と自然が豊かなんですよ。砂原の天神社から上笠橋のあたりまではうっそうと竹やぶが続いていました。春にはタケノコがたくさん出ていました。

(山元) 虫も動物も結構いた。キツネもタヌキもいた。キジは本当に「ケーンケーン」って鳴いてました。
 夏のセミ獲りは楽しかった。網がない時は小枝にクモの巣をくるくる巻いて獲るんです。堤防には大きなシイの木があって、朝早くカブトムシも捕まえに行きました。今思うと、水がない川でも上手につきあっていましたね。

 本当はダメなんだろうけど、土手を耕して畑にしている人もいました。堤防の枝木を払って焚きつけに使ったりね。今でこそ、ゴミが目立つけど、当時はプラスチックやビニールのない時代だったからゴミも出ない。むしろ、なんでも上手く活用していたから、川もきれいだった。川の砂を持ち帰って、床の下に撒く家もありました。湿気がこもらないようにするんです。
 子どもの遊び場、大人の暮らしの場だった。

川でつながる縁

旧草津川 (堀井) 仕事をするようになってからは、健康のために毎朝堤防を歩いていました。家から旭橋まで往復6㎞、約1時間です。空気が澄んでいて、さわやかな時間です。結構、人が通っているんです。高齢者は散歩、若い人ならジョギング。毎日すれ違うから、そのうち自然と挨拶を交わすようになります。

 転勤なんかがあって、戻ってきてから、しばらくぶりに歩いたときに「久しぶり、元気やった?」と声をかけ合う人もいました。お互い名前も知らないんだけど、なんとなくいいですよね。
(山元) 若いころからカメラが趣味です。散歩するときもつい、写真の構図として景色を見てしまいます。「良い画になるかな」って。草津川もずいぶんと撮りました。私は基本的に風景を撮るんですが、やはりそこに人がいる画が好きです。桜とそれを愛でる人、堤防と自転車を漕ぐ中学生。風景の中に、何気ない人の営みがあると、写真にグッと趣きが出る。

川があったんだ

旧草津川 (堀井) 草津は草津川で南北に、JRで東西に、と4つに分断されているといわれてきました。草津川が廃川になったことで堤防を取りさり、平たくすることで私の暮らす山田地区でも南北の行き来が楽になるのになぁ、と地元から要望を出したこともあります。
 結果的に私が暮らす区間は憩いの空間やにぎわい施設ができるようです。もちろん考え方は人それぞれ。今は一日でも早い整備を願うばかりです。あのころの私たちがそうであったように、子どもたちが思いっきり遊ぶことができる場所になって欲しいですね。

(山元) 私たちにとって草津川は自然の宝庫でした。そこに行けば誰かがいる場所でした。そのまま残してほしい気持ちもありましたが、時代も変わりました。ただ、長い長い時間をかけて刻まれた川の歴史は大切な遺産だと思うんです。ここに川があったということ、一人ひとりの草津川があったということだけは残していきたいものです。


旧草津川堤防写真:山元國一さん

取材・掲載

コミュニティくさつ112号 2017.3月
「ゆく川の流れは、未来へ。」より

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