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まちサポくさつ (公財)草津市コミュニティ事業団

ゆっくり草津 街道物語

13.異国の王子がたどり着いた地 【集から穴村へ】

双子のような川

 伊勢落(栗東市)の中ノ井付近で野洲川の支流となる中ノ井川。駒井沢町で駒井川と分かれ、集を通り、そしてまた出会う双子のような川です。その後は葉山川と合流し川幅を広げながら琵琶湖へと注ぎこみます。
 中ノ井川をたどりながら集を歩くと川がクランクになっている場所に着きました。鎌倉から戦国にかけては人が、以後、明治までは人だけでなくモノも舟で運ばれ、市場も開かれました。この近くの字名が「市場」なのはそのためです。物資を輸送したこの川が、いかにこの辺りの暮らしに根ざしていたのかわかります。川のせせらぎを目と耳で楽しみながら集の路地を歩きます。

 戒定院に着きました。江戸後期、駒井沢の中井吉衛門の娘は、京都の公家である一条家の芳春院に仕えていました。芳春院から頼まれ阿弥陀如来と観音菩薩をまつり、芳春院を弔うために建立されたのが、ここ戒定院です。剃髪後は「真如」と名のったことから真如庵ともいわれます。代々尼僧が住職を務め「市場の庵主さん」と呼ばれています。近くの仲井(中井)姓の5軒がお堂のお世話をしています。

落城後はのどかな風景

城跡から比叡を望む  駒井沢・新堂・集・十里・穴村・北大萱の一帯を「駒井ノ庄」と言いました。中でも駒井沢・新堂・集を「駒井村」といい、駒井城を中心とした城下町でした。城といっても天守閣や石垣はなく、竹藪で囲んだ土塁を築き、周囲を空堀でめぐらせた館です。近くの田畑を「中ノ倉」と呼ぶことからも城内に倉があったことが想像されます。「応永の乱」の後、佐々木六角の家臣だった駒井氏により建てられたが、1573年、瀬田城主の山岡景隆に攻められ落城しました。今は城を囲んだ竹藪もなくなり、田畑が広がる一面のどかな景色となっています。その城跡は美しく掃き清められ建分大明神が氏神様としてまつられています。

 駒井沢から集方面に向かうと正三神社があります。集の氏神様で建立は676年、藤原鎌足の息子である定恵によるものです。火災・台風など幾度かの災害にあうたびに再建されています。境内の観音堂には平安時代のものとされる木造の十一面観音菩薩が安置され草津市の文化財に指定されています。またこの地は宝光寺(北大萱)の4つの別院のひとつ智厳寺の跡地とされ、境内の隅には当時のものと思われる台石や宝塔の丸い石などが今も残ります。こちらの祭神は立木神社と同じ戦の神がまつられています。

ちょんまげした墓

ちょんまげの形は武士の墓石の特徴  正三神社の隣は阿弥陀寺です。元々、さきほどの宝光寺の七精舎の一つとして北大萱にあったものが江戸時代に移されました。再三火災にあったことから明治元年に手原(栗東市)の陣屋を移築し本堂としましたが、現在の姿は平成7年に新築されたものです。阿弥陀寺のすぐ近くには駒井家の菩提寺である永秀院があります。
小谷城の戦いで討ち死にした駒井永秀を弔うため、息子の秀国が開いたといわれています。境内に歴代の駒井氏当主と住職の墓があります。ちょんまげのような形の石塔は江戸時代の武士の墓石の特徴で、もちろん駒井氏の歴代当主のもの。卵形の石塔は「無縫塔」といわれ住職のものです。元檀家や近所の方々が無住の境内を、美しく大切に守られていることがうかがわれます。
路地をしばらく歩くと「右 あみだ寺へ 一丁  左 穴村へ」と刻まれた小さな道標があります。一丁は約110m、道標に導かれながら穴村、安羅神社へと向かいます。

異国の王子がやってきた

これが安羅神社の鳥居。額束を畳一畳分。  穴村の安羅神社では堂々とした風格のある石の鳥居が迎えてくれます。この鳥居、明治時代に満州国の総務次官であった駒井徳三氏が寄贈したもので、鳥居にかけられた『安羅神社』の額束は畳1畳分もある大きなものです。
 安羅神社にまつられているのは新羅の王子、天日槍です。「どうして穴村に新羅の王子が?」との声が聞こえてきそうです。日本書紀によると新羅の王子、天日槍が渡来し、瀬戸内海から播磨、浪速の港から宇治川をさかのぼり、ここ近江の国にやって来ました。
天日槍はその過程で医術・製鉄・製陶の技術を日本に伝えていきました。ここ穴村では医術が、竜王町の鏡では製陶技術が、そして天日槍はその後、若狭に行き出石に留まりました。鏡神社や出石神社の祭神が安羅神社と同じ天日槍なのはこのためです。遠く離れた3つの神社が天日槍という糸でつながります。

 また安羅神社には焼いた石を布にくるみ、温めて患部を治療する「温石」と呼ばれる黒い石が、社宝として大切に残されています。本殿の両扉の内側には桃山時代の作といわれる右大臣・左大臣が描かれていますが、どちらも普段は見ることはできません。また鎌倉時代に建てたとされる境内の五輪塔は歴史の重さを物語ってくれています。
神社前の道と瀬田から続く芦浦道との辻にある道標には「右 や者せ  左 くさつ/て者ら」と刻まれています。
この芦浦道は瀬田から矢橋を通り、葉山川にかかる観音寺橋を渡って芦浦観音寺へと続く道です。

「穴村のもんもん」と「串だんご」

穴村診療所。門の向こうに大きな松の木が。  どこか懐かしい風情を残す穴村をくるりとめぐると、川沿いにレンガ作りの大きな建物。穴村診療所です。「穴村のもんや」と言ったほうがピンとくる人も多いかもしれません。ここの「穴村のもんもん」と呼ばれる墨灸は夜泣きや癇の虫に効くことで有名でした。前庭にある大きな松の木の下では、診察の順番を待つたくさんの親子連れで賑わっていたそうです。
 穴村にはかつて港があり、大津と志那、赤野井(守山)を結ぶ蒸気船は穴村港へも立ち寄り、明治から昭和初期にかけて多くの利用客がありました。もちろん目的は「穴村のもんもん」。穴村港から「もんや」までの約2kmの道のりは、遠く大阪や京都、大津から診療を受けにきた親子連れで溢れ、人だけでなく馬車・人力車・貸し乳母車で列をなしていました。

 これらの人を受け入れるかのように穴村診療所前の道路は下駄屋・まんじゅうや・郵便局などいくつものお店が並び多くの賑わいを見せました。今も残る吉田玉栄堂で作る「穴村名物串だんご」が往時をしのばせる手掛かりです。もんやでの待ち時間のおやつやお土産にと、末広の形をした本に裂いた串に乳首に似せた小さなだんごを刺し、醤油を絡めた素朴な味の「穴村串だんご」はとても人気でした。今でも月~水曜日のみ予約販売をされています。

遠い地から運ばれたもの

穴村の串だんご 安羅神社の温石に穴村のもんもん。穴村で触れた二つの医術、これも遠く新羅から来た王子、天日槍がこの地に伝え残したものなのでしょうか。安羅神社が天日槍をまつっている由緒から今でも穴村と韓国の交流があるそうです。
元々、草津の「津」は人や物が集配されるターミナルのような役割をする所からこの地名がついたとも言います。そこにたどり着いた異国の王子の心中はどんなものだったのか、どこかそんな情緒にさせる街道歩きでした。

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