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まちサポくさつ (公財)草津市コミュニティ事業団

ゆっくり草津 街道物語

14.賑わいと静けさ ~本陣・東海道①~

出会いと別れのまち

追分道標  ご存じのとおり東海道と中山道が合流・分岐する草津宿は、江戸の世から多くの人が行き交い、物資や情報が集まる場所として旅籠や商いの店が並ぶ賑やかさを見せました。大名などが宿泊した草津宿本陣は現存する本陣の中でも最大級の規模といわれます。本陣としての役目を終えてからは郡役所、公民館となり、平成8年の大改修以降は一般公開され市民や観光客に往時の宿場町をしのばせてくれています。靴を揃え、中に一歩入るだけでお殿様・お姫様気分になれる空間です。

 さらに東海道を駅に向かって少し歩くと旧草津川をくぐるトンネル「マンポ」です。文明開化が進む明治 年、人力車や馬車が通行するために隋道が掘られたアーチ型のレンガづくりでした。当時トンネルの上に掲げられた「草津川」と書かれた扁額は、すぐ横に移されています。

 この手前にあるのが「川源」、江戸時代から続く雑貨屋さんです。草津川堤防から通りを見下ろした昭和 年代の写真には、川源さんの隣に「かどまる」の看板。「かどまるの下駄は良い下駄」と評判だった下駄屋さんも今は昔の話となりました。
ここが東海道と中山道の合流分岐点。見上げると「みぎ 東海道 いせみち 左 中山道 美のぢ」と彫られた道標がそのことを教えてくれます。ここから篤姫は東海道を、和宮は中山道を進んで江戸へ嫁ぎました。
 こうしてこの地を通り、日本の歴史が刻まれていったことを思うと、この草津がいかに重要な場所だったかを改めて感じます。また道標の向かいには高札場があったとされます。常時7~8枚のお触書が貼り出され、掲示板の役目を果たしていました。

本陣の裏側

お除け門とお除け道  旧草津川は全国でも有名な天井川です。京都や奈良で寺院や仏像がつくられる際に必要となる材料や燃料として、たくさんの木材を上流の湖南アルプスから伐採したために、そこの花崗岩が流され堆積したとの説が有名です。高く積み上がった堤防はたびたび決壊したり、渡しで大雨のために足止めを食った旅人がたくさんあった記録も残されています。そんな旧草津川も今の私たちには桜の名所。この堤防桜は、明治 年に草津小学校の深尾校長が桜の苗を植樹されたことに始まり、水やりなど根付くまでの苦労がしのばれます。

 高札場横の坂道から堤防に上がります。草津川がまち並みより高い天井川であったことを改めて実感しながら堤防沿いを歩きます。ここから見える景色、わずか 年前で高い建物といえばお寺くらいでしたが、今はたくさんのビルやマンションが立ち並ぶ景色に変わっています。堤防を少し西へ歩き御除け門に下ります。御除け門は本陣の北西の角(乾の方角)に造られました。
 本陣に大名などが宿泊されると、ここに番人が立ちます。そして何かあったときには、ここから御除け道を通り立木神社へと逃れるよう計られていました。幸いなことに、ここを通りぬけ難を逃れるような一大事はなかったといいます。御除け道から本陣を覗くと見張り窓のある門番の部屋とお稲荷さんが見えました。1305坪という本陣の敷地の広さを垣間見ることができます。

 水路沿いの御除け道を歩くと、青い竹やぶとドクダミの白い花が涼しげに初夏の訪れを伝えています。くるりと角を曲がり本陣の敷地沿いに歩きます。今は暗渠となっているこの道は小川小路と言い、本陣の堀の役目をしていた郡上川が下を流れます。またこの辺りは「抱え長屋」と呼ばれ、本陣に勤める人々が住んでいました。人通りのある東海道のにぎやかさが、かえってこの小道の静けさを演出します。小川小路から眺める本陣は白壁と屋根の勾配が美しく、時代を経てもなおその格式を感じさせます。この七左衛門本陣は材木商も営んでいたことから木屋本陣とも呼ばれていました。

賑わいをみせた商店街

 再び東海道に出ます。吉川芳樹園、この辺りが「脇本陣 藤屋与左衛門」跡となります。またこの建物は江戸末期のもので市の登録文化財に指定されています。名所図会には多くの客でにぎやかな脇本陣の様子とこの「ゆっくり草津街道物語・志津」で見た『活人石』が床の間に描かれています。
 現存する七左衛門本陣の他に、草津にはもう一軒の本陣がありました。今の草津宿脇本陣から玩具屋「京八」までの敷地にあった九蔵本陣です。ここには篤姫や徳川家茂が利用した記録も残されています。またこの地には明治 年、草津小学校の前身「知新小学校」が新設されました。その門が建っていたという石が路地の角に名残としてあります。
 京八横の路地は本陣小路と呼ばれていました。案内してくれた石田さんからは大正座という映画館や化粧品・美容院・提灯・荒物など多くの店が並んでいたこと、そして草津に市が開かれていたことなど当時の商店街のにぎわいを懐かしい記憶として聞きました。

たどる変遷

吉川芳樹園  矢倉に向いて歩を進めます。中神医院付近には江戸時代、「三度飛脚取次処」がありました。ひと月に3回、大阪・京・江戸を往復した民間の飛脚「江戸屋」の取次ぎをした「荒物屋九右衛門」の跡で、当時の看板は市立街道交流館に保存されています。
 その向かいにある中栄は、旅籠から醤油屋、そして現在の荒物屋へと変遷をたどりました。この辺りの建物が街道に面しながら間口が狭いことに気づかれるでしょうか。これは江戸時代、間口の広さ(3間ごと)に対して課税されていたためです。このため今も街道沿いには間口が狭く奥行きの長い家々が残っています。奥に中庭や蔵などを配する京都の町屋を思わせるたたずまいです。

 中栄の店の並びにレトロな赤い丸型ポストがあります。見上げると屋根の軒瓦に松の模様が見えます。ここには旅籠「松屋」がありました。松屋だから松の模様です。
 井上金物店は屋号を「金茂」といい、数代前の「金屋茂七」さんは江戸時代、菓子商を営み寺や神社に納めていました。久徳医院のある場所はかつて百三十三銀行が建ち、後に滋賀銀行に変わりました。南歯科の建物があった辺りには宿の役人だった油屋(奥村)孫十郎の住まいがあったといわれています。

 今回の街道物語を手に一度歩いてみてください。実は今回、取り上げたスポットは約3k㎡におさまっています。さすがに草津のかつてのにぎわいの中心地、皆さんにお伝えしたいことが満載で誌面がなくなりました。石田さんの案内で聞くものすべてがめずらしく、一歩路地へ入ると小さな発見の連続でした。大きな通りもいいけれど、少し小路に入るとどこか懐かしい静けさと、ゆっくりとした時間が迎えてくれます。
 まだまだ知らない草津がそこにあって、楽しむことができることがうれしい限り。ぜひ小路を散策してくださいね。というわけで、次回はこの続き。草津宿街道交流館から物語がスタートします。

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