RSS通信

まちサポくさつ (公財)草津市コミュニティ事業団

ゆっくり草津 街道物語

16.賑わいと静けさ ~本陣・東海道③~

みんなの憧れ 魚寅楼

魚寅楼  鳴らない鐘と忠犬物語が残る真教寺の向かいには江戸時代、郷蔵がありました。郷蔵とは草津村の年貢米や書物を保管したところです。後に草津村役場となり、昭和33年の草津市誕生から11年までは市役所として使われていました。
 東海道と並行した路地、ちょうど夢本陣の裏あたりに小さな神社を見つけました。稲荷大明神と北斗大将軍がまつられ今も地元町内会でまもられています。商売繁盛と火除けの願いが込められているところが宿場町ならではですね。

 さて、ご存じの魚寅楼は正式には「双葉館魚寅楼」と言います。江戸のころは旅籠「双葉屋」として、明治以後は料亭「魚寅楼」として本陣料理をもてなしてきた老舗店です。昭和11年ごろに建てられた本館・奥座敷・塀は国の登録文化財に指定されています。市内で最も古い料亭で庭は日本の名庭百選にも選ばれています。「昔は結婚式を立木神社で、披露宴を魚寅楼でするのがみんなの憧れでしたよ。」と当時を懐かしむ観光ガイドの石田さんでした。
 魚寅楼の前は「筋違い」、ここでも宿場町としての土地の記憶を見つけました。土地の記憶は東海道を横切るいくつかの路地の名前にも残っています。道灌蔵の横が山王小路、街道交流館の横を酒屋小路、魚寅楼の前は本陣小路、本陣横が小川小路…細い路地にまで名前がついているのは、いかに路地と人々の暮らしが結びついていたのかが伺えますね。

暮らしの匂いを残す路地

コイの欄干  さらに草津川に向かって路地を歩くと傳久寺、真願寺、円融寺とお寺が続きます。江戸時代には草津宿に7つのお寺があり、常善寺を除いてすべて街道の西側に集中しています。街道沿いには税を納める店を並べるので、お寺は街道から少し入った場所に建てられました。また、いざ戦が起これば寺は宿にもなるので、まとまった地に建てられたとも言われています。小川小路のそばを流れる郡上川には以前は今より水かさがありました。そこでゆうゆうと泳ぐ鯉も、それらを楽しげにのぞき込む保育園児の光景も、新草津川の通水でなくなりました。今では欄干に刻まれた鯉がその名残です。

 円融寺の周囲の路地を散策します。元町4丁目にある役行者と蔵王権現・不動明王の三体がまつられた行者堂。今でも毎年8月23日に護摩焚きが行われます。真夏の護摩焚き、噴き出る汗で体重も落ちるとか。
 干された洗濯物、玄関脇に置かれた親子のものらしい大小の自転車。今も暮らしの匂いが残る路地を歩くと上藪瓦店まで来ました。店の前に並ぶ瓦に目が行きます。古い年号が刻まれたもの、珍しい形をしたもの…一つひとつの瓦が私たちに時代と暮らしを語りかけているようです。
 横町に出ると懐かしい格子がある家がまだあちらこちらに残っています。折りたたんだ床几も見つけました。夕涼みに腰かけて近所の人とおしゃべりした風景がなつかしいですね。

グランドを自分たちの手で

昔は繁華街だった  また路地に入り郡上川を遡るように歩くと草津中学校北門跡。現在は閉じられたままです。60年前には、この門から生徒たちが旧草津川の砂を袋に入れ毎日グラウンドに運んでいました。今なら重機や車でする作業を生徒たちが歩いて運んだこと、自分たちでグラウンドを造っていた話に頭が下がります。そんなことを考えながら、さらに郡上川を遡ります。
 草津1丁目辺りは、中央に柳の木が植えられた道沿いに、うどん屋、寿司屋などが並ぶ賑わいをみせた繁華街でした。今では格子のあった風情ある家屋やお店も次々と新しい住宅に替わり、その賑やかさも人々の記憶から薄れつつあります。郡上川の流れを見ながら堤防に向って歩きます。

 江戸時代の神宮寺は立木神社の境内にありました。明治の廃仏毀釈により今の地になりました。本尊の十一面観音像、脇には不動明王と毘沙門天が立っておられ、33年に一度開帳されます。平成11年の開帳の際は天台宗・比叡山から新たに来られた住職や近くの寺のお坊さんがずらりと並び、多くの参拝者で盛大に執り行われました。市の文化財に指定されている春日鹿曼荼羅は栗東歴史民俗博物館に保存されています。

土地の記憶は何気なく、しっかりと

横町道標  ふたたび東海道・横町に出ました。坂道を登りきった所が、江戸から来た草津宿の入口です。登ってきた坂道を振り返ると一直線でないことがわかります。「遠見遮断」といって先ほどの筋違い同様、宿場内を見通せない防御の役割を果たしています。京都側の入口も同じく遠見遮断となっているのでご確認を。
 また、注意して見ると家々の並びがギザギザになっていることにも気づきます。これは「のこぎり型屋敷割」と言い、「遠見遮断」の一つです。江戸の記憶は何気なく、でもしっかりと残っているんですね。

 草津川にかかる橋の手前には東海道としがらき道の分岐点を表した横町道標があります。かつての道標は1816年に日野の豪商・中井正治右衛門が永久燈明代とともに寄進したもので、金銅製の火袋があったそうです。売り手よし・買い手よし・世間よし。「三方よし」の理念で有名な近江商人の足跡を、ここ草津でも見つけることができました。

 東海道を挟むように二つのお地蔵さん。横町地蔵と高野地蔵です。横町地蔵は川の氾濫を守るためにまつられ、お堂の横に階段があります。元々この高さではなく堤防が積み上げられ昭和42年に今の高さになりました。向かいの高野地蔵は大戸川の護岸工事で見つかったお地蔵さんがこの地にまつられました。当時は田上山が見えるように建てられていたとか。

滝沢馬琴と草津の洪水

遠見遮断  ここは旧草津川の渡し場があったところです。今では橋を渡って東海道が対岸へと続きます。名所図会にはこの渡し場と、その向こうに遠く三上山が描かれています。現在でもビルやマンションの隙間からのぞくように三上山が見えます。また昭和のころはここから立木神社方面を見ると7つのお寺が一目瞭然だったといいます。
奈良に都の造営で山の木々を伐採され、山からの花崗岩が草津川に流れるようになりました。川底にたまる花崗岩を時の人々が堤防に積み上げながら、天井川が今の高さになったのは昭和42年のことです。1802年の「享和の洪水」では死者 人・行方不明100人・崩壊家屋300棟と被害の記録が残り、偶然旅の途中で草津を訪れていた滝沢馬琴の日記にも洪水の様子が記されています。

 堤防沿いから立木神社方面に目をやると肩を寄せ合うように建つ家々が見えました。宿場を見渡すこの風景、時が経て、まちの様相が移り変わった今でも「草津らしさ」を感じ、どこかホッとした心地にしてくれるから不思議です。

前のページに戻る