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まちサポくさつ (公財)草津市コミュニティ事業団

ゆっくり草津 街道物語

19.草津の中山道を行く ~大路~

エプロン姿の買い物客、草津銀座

駅前デッキ  今回も出発は草津の玄関口、草津駅。明治22年の官設鉄道・湖東線(現JR東海道線)の開通と共にできました。京都までの時間を短縮した昭和31年の電化は田園都市から住宅都市へと草津の表情をみるみる変えました。ここに昭和45年当時の駅前の写真があります。「うばがもちやが写っています。当時はリッチな食堂というイメージがありました。今こそ高層マンションが建ち並んでいますが、当時の駅からは三上山・比叡山・比良山系がよく見えたんですよ」と案内役の石田さん。平成元年にはスーパーヒカリ屋が入ったLty932がオープン。人形が時を告げた「からくり時計」を覚えていますか。その後、近鉄百貨店の出店などもあり駅周辺の高層ビルやマンションが次々と建設されたのは記憶に新しいところです。

 東口デッキを降り、サンサン通りに向かうと角地には日本旅行草津支店。草津は「パック旅行」の発祥の地。草津出身の南新助氏が明治の終わりに日本で初めて団体旅行を企画、日本旅行の前身となる「日本旅行会」を創りました。また南新助氏の父は草津に鉄道と駅をつくることに尽力した人物です。後に駅構内で「うばがもち」や弁当の販売を許され家業にしました。

 「うばがもちや」の歴史が草津の交通史とともにあったことは前にもふれました。角地は今、マンションとなっていますが昭和の初めまでは栗太銀行大路井支店が建っていました。その後、昭和43年に鉄筋コンクリート造5階建ての大型店「ヒカリ屋」が先ほどのLty932に移るまでの間、ここにありました。多くの人が移り住んだ草津の40年代、ヒカリ屋や平和堂だけでなく、ハズイ、みつい食料品店などの個人商店も多く、白いエプロン姿で買い物をする人や通勤姿の人々でにぎわい「草津銀座」とも呼ばれました。

今も大切にされる神水

今も多くの人に愛される神水  商店街を本町に向いて覚善寺まで来ました。門前には「右 東海道 左 中仙道」と刻まれた大路井道標があります。明治19年に草津川の下にトンネルができた際に分岐点が200m北へ移動したことで新しく建てられたものです。当時の覚善寺の境内は今より広く、道標も角にありました。
 覚善寺から再び国道に向かうと小汐井神社です。平安の代に創建されたここは女体大権現と呼ばれ、小汐井神社となったのは明治のことです。田心姫命(たごりひめのみこと)という女性の神様がまつられ安産や縁結びの神様として御利益があるとのこと。境内には県内で唯一の水天宮があり、鳥居をくぐるとすぐに「潮齋の井」(おしおいのい)と書かれた神水があります。今もこの神水を汲み帰る人がたくさんいます。そんな話を聞いてる横から近くの事務所の人が神水を汲みにきました。「毎日こちらの水で職場のコーヒーを沸かしているんです。美味しくて」とのこと。また秋の吉例祭には「狐おどり」が奉納されます。平成15年に復活された踊りで狐の仮面をつけた男性が赤い襦袢を身に着け境内で踊ります。参詣者にはきつねうどんの振る舞いもありおいしいと評判です。もちろん先ほどの神水です。

路地裏でひっそりと 人々の願い

草津の浮世絵がデザインされたトンネル  ここからは旧草津川堤防に向かって歩きます。草津キリスト教学園・信愛幼稚園は日本で数多くの西洋建築を建てたウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計です。外装は改築されたものの、礼拝堂など中の設計にヴォーリズの特徴がみてとれるといわれています。中山道から延びる道との交差点には明治41年から大正15年まで栗太郡役所がありました。その後も県の地方事務所として昭和56年まで使われました。昭和30年代の写真には近くに税務署や土木事務所も見られ、この辺りが官庁街だったことがわかります。

 堤防に沿って商店街に向かいます。人がやっとすれ違うことができるくらいの細い路地の途中には小さな祠。七助大神は稲荷をまつられ愛宕神社の「火廼要慎」のお札が祠に貼られています。狭い路地裏で見つけた商売繁盛と防火の願いに、ここが商売の街であることを改めて物語ります。商店街に出ました。路地裏の静けさがウソのようです。すぐ左に(*)マンポ。草津川の下を通り大路井と本町を結ぶレンガのアーチ型トンネルが開通したのは明治19年のこと。昭和39年のコンクリート化を経て、草津の浮世絵がデザインされた壁画が人々を楽しませる現在のトンネルは平成元年の改修です。新草津川の通水により廃川となった草津川の跡地利用は、現在も検討が続いています。もはや秋の風物詩といえるイベント「街あかり・華あかり・夢あかり」では、この天井川に1万灯の灯りがともされ川底が天の川となってきらめきます。

街道を歩く理由

登録テスト4  さて、マンポから堤防沿いを歩くと草津温泉。大正14年に開業した当時は木造3階建てで目を引く近代的な建物でした。昭和2年には隣に映画館「文栄座」が開館し、娯楽の中心に映画があった昭和30?40年代には多くの人々で賑わいました。堤防に別れを告げるように道は駅へと向かいます。草津温泉の付近に大丸醤油店倉庫跡を見つけました。のちに食堂「一ふじ」となったその建物は江戸時代から続くもので、屋根から壁へと蔦が見事に絡み、歴史を感じさせる佇まいをみせていたそうです。

 Lty932との角地に草津で最も背の高いマンションがあります。その高さ111m。この辺りも昭和40年代には「大阪チェーンストア」や靴屋などが並んでいました。記憶に新しい草津シネマハウスも平成19年までこの辺りにありました。駅前開発や人口の増加とともに昭和の面影がだんだん遠ざかります。明治・大正・昭和・平成と急激にその表情を変えてきた駅周辺も、こうして歩いてみるとあちらこちらに路地があり、懐かしい風情を残す家屋も残っていたりします。そこに暮らす人々にお話を聞くともっとリアルに当時の情景が浮かび上がってくるのも路地の楽しみ方の一つではないでしょうか。そんな草津らしさも大切に新しい世代に引き継いでいく。それが今日も私たちが街道を歩く理由なのです。

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