RSS通信

まちサポくさつ (公財)草津市コミュニティ事業団

ゆっくり草津 街道物語

10.伝統に触れる笠縫 【笠縫】

3本足のカラス 熊野神社

熊野神社のヤタガラス  平井を抜けると「アヲキの杜」といわれる自然豊かな場所に現れるのが熊野神社です。市の自然環境保全地区・滋賀県風致保安林にも指定されるこの地は、鎌倉時代に佐々木氏が十二所権現である12体の神を熊野三山から呼び寄せ、まつったところです。明治の廃仏棄釈により現在は9体が残っており、6体が栗東歴史民俗博物館に、3体が熊野神社に保存されています。
 この神社の神の使いはヤタガラス。日本サッカー協会のシンボルマークにも用いられている3本足のカラスです。この3本の足は「智・仁・勇」の三つの徳や「天・地・人」を意味するともいわれます。御神木はナギの木で、お守りとしてその葉っぱを財布に入れる人もいるとか。
 
 またこの神社の拝殿は通路を挟んで2つに分かれています。格によって拝礼する位置が分けられているのでしょうか、めずらしい拝殿を一度ご覧あれ。熊野神社にはその昔、坂本に奉公に出た少年に「どこから来た?」と聞くと「あのスギの木あたりから」と熊野神社の大きな杉を指差したという話も残っています。琵琶湖の対岸からも見ることができたとされる大きな杉の木は枯れてしまい、今となっては見ることができないのが残念ですね。

宗鑑 春を詠う

見つけたもの ツクシ  さてここから車で笠縫東市民センターまで移動。センター前には「俳諧の祖」といわれる山崎宗鑑の

あさミどり  はるたつ空の  にをひかな

の句碑が建っています。志那町で生まれた山崎宗鑑は足利義尚にも仕えた室町時代の連歌師で、尼崎・山崎・観音寺市へと移り住みました。宗鑑の句碑はここを含め市内に4基あります。句をたしなむ人たちが宗鑑ゆかりの地として訪ねて来ることもあるとか。この句にふさわしく、このあたりのどかな春の風景が広がり、隣の市民農園では青々と作物が育っている景色が印象的です。

 市民センターから川原の交差点に向って歩を進めると奈良時代に創建された天神社があります。境内にあった神護寺の仏像は、これまた廃仏毀釈により飛び地境内である観音堂のなかに移されました。「川原」という地名は以前に葉山川がここを流れていたことからこの名がついたそうですが、天神社の前の道路が川だったとは驚くばかりです。門をくぐると、そびえ立つようなナギの木と境内には神事をする際に使われる大きなかまどがあり、森の静けさに包まれた神社に心安らぎます。

難を逃れた最勝寺のツバキ

最勝寺のツバキ  天神社に別れを告げ平井方向に川原の交差点を渡ると、赤いツバキの枝が張り出した最勝寺があります。お寺のツバキはクマガイという品種で、拳くらいもあろうかと思うほどの大きな花をたくさんつけます。樹齢350年以上といわれるツバキは京都の宝鏡寺(通称・人形寺)の木を分けたもので、今では見上げるほどの大木です。お寺の前を流れていた葉山川の地下水脈がここまで木を大きくしたとか。
 このツバキにもお話があります。以前、人がやっと通れるほどの幅だった最勝寺の前の道、せめて荷車が通れるように、やがて車が通れる幅まで広げようとの計画があがり、そのためこのツバキを切ってしまうという話がもちあがりました。それに対し先代の住職や近所の人たちの「木を切るなんて」と大反対したことから、ツバキは難を逃れました。
 こうして残ることになったクマガイのツバキ、私たちの目を楽しませるだけでなく「草津市の名木」にも指定されました。地域の人々に愛された木なのですね。最勝寺 代目の僧、願了はソロバン老僧といわれるほど算学に長け、医学・花道にも通じ、明治天皇の父孝明天皇崩御の際に池坊家元と共にお花を献じました。
 
最勝寺の向かいは観音堂の入口。観音堂の中には天神社内の神護寺にあった十一面観音がここに移され、今もお守りする 人衆がおられます。ここいらで一休み。淡海くさつ通りと伊佐佐川放水路が交差するところに屋根のあるポケットパークがあります。見上げるとなんと「講踊り」と「アオバナ摘み」のステンドグラス風の天井絵が…。周りの景色だけでなく、たまには上を見上げてくださいね。

上笠天満宮と笠堂ミステリー

上笠天満宮  さて伊佐佐川を渡り上笠天満宮へ向かいましょう。この地を治めていた笠氏は祖神をまつるため神社を建立しました。その後、菅原道真も祭神に加えられたのが上笠天満宮です。境内には道真が愛したことで知られる梅の木と神の使いである牛の石像があります。10月の最終日曜日に五穀豊穣・無病息災・雨乞いなどの意味を込めて奉納される「講踊り」(県無形民俗文化財)は有名ですね。
 ここからすぐのところに西教寺があります。西教寺には薬師如来像が伝わることや境内に古い石造があること、また先ほどの上笠天満宮に「上の堂絵図」が保管されていることから、白鳳時代にあったとされる「上の笠堂跡」(医王寺跡)は「西教寺から上笠天満宮付近までの広い土地だったのではないか」という説や、「いやいや熊野神社が上の笠堂だったのではないか」という説もあり、ちょっとした古の笠堂ミステリーですね。

忠義を貫いた人 大久保忠隣

 突然目の前が開け田畑の向こうに比良の山並みが現れます。畑の一角にあるのは大久保忠隣の石碑です。家康の重臣だった忠隣はいわれなき罪を着せられ、小田原城や土地を召し上げられた上に幽閉の身となりました。上笠の庄屋である井上家で3年の月日を過ごし、彦根に移り住みます。
 家康亡き後、彦根の井伊直孝は冤罪を晴らすよう忠隣に勧めましたが「それでは家康公の判断が間違いだったことになる。そんなことをしては亡き殿に申し訳がない」とこれを断ったといいます。その後、大久保家の子孫が井上家にお世話になったお礼にと米5俵を井上家が途絶える昭和 年まで送り続けました。
 平成12年には地元の人々の尽力により忠隣が上笠に住んだ証としてこの石碑が建てられましたが、裏に昭和15年と刻まれているのはこのためです。

老杉神社のサンヤレ

老い杉神社の鳥居  さて最後の訪問地は老杉神社です。神様が大きな杉の木に降りられたことからこの名がついたといわれています。鳥居にまきつく蛇は2月15日の「エトエト祭り」の際に作られ、5月3日のサンヤレ踊りが終った4日に外されます。今も8つの宮座組織が行事を引き継ぎ神社をお守りしています。市内に7つあるサンヤレ踊りの中でも老杉神社のサンヤレは衣装が美しく、京都の時代祭り(室町時代の行列)はこの衣装を参考にして再現されました。社殿の三間社流造の美しい屋根の形、極彩色のカエルマタの彫刻に目を奪われます。30年ごとに葺きかえるという桧皮葺は昨年吹き替えたばかりです。

 今回歩いた笠縫の道はあちらこちらに春を見つけることができ、豊かで軽やかな気分にさせてくれました。またサンヤレや講踊りのような伝統行事が今も地域の人々に受け継がれ大切にされていることは誇らしくもありました。鎮守の杜や田畑を通る風が清々しく感じられる春の日でした。

前のページに戻る