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まちサポくさつ (公財)草津市コミュニティ事業団

ゆっくり草津 街道物語

11.するりと過去へ 【矢倉~矢橋道】 

右か左か?思案の地「矢倉道標」

稲荷神社の鳥居  数えてみたら29本もの朱塗りの鳥居が立ち並ぶ矢倉の稲荷神社には朝日大明神と伊吹大明神がまつられています。向かって右手、朝日大明神の祠には膳所藩、本多家の家紋である「立葵」の軒丸瓦を見つけました。膳所藩の領土にある神社には、このタチアオイの家紋が多く使用されていることは、これまでにもご紹介済みですね。
 
 さて伏見のお稲荷さんを思わせる鳥居に別れを告げ、東海道を立木神社に向いて歩を進めます。瓢泉堂の前で矢倉道標を見つけたころ、同じように東海道を歩く団体と出会いました。街道での出会い…徒歩や馬で移動していたころにはあたり前の光景も、移動手段が変わった今の時代では、少し気恥ずかしさというかギャップを感じたりして、時代の流れですかね。
 道標のあるここは矢倉から大津方面に向かう多くの旅人たちが「矢橋道を歩き琵琶湖で船に乗るか、このまま東海道を陸路で勢多の唐橋を渡るか」といった選択を迫られる思案の地となったことは「勢多へ廻ろか矢橋へ下ろかここが思案のうばがもち」という唄からも教えられます。
 当初この道標はとても小さく、通行する人たちに見過ごされがちだったとか。このため寛政 年(1798年)には現在のものに建て替えられ、今では市の文化財に指定されています。多くの人を導いた道標には「右や者せ道 古連より廿五丁/大津へ船わ多し」と刻まれています。

街道・草津の名産

 さて街道での出会いが当たり前だった江戸のころ、ここには「うばがもちや」もありました。お餅を食べながら右か左か考えあぐねる旅人がどれくらいいたか定かではありませんが、街道沿いのお土産として人気を博した草津名物「うばがもち」の当時の賑わいは浮世絵や名所図会からも私たちに物語ってくれます。

 さて今もこの地にある瓢泉堂に話を移します。ここは200年前から続く瓢箪屋さん、水・お酒・醤油などを入れるためだけでなく、中をくり抜いてつくる瓢箪は「腹がない、角がない」縁起物や装飾品として、行き交う旅人が買っていき草津の名産の一つとなりました。
 草津の名産つながりでもう一つ。瓢泉堂の隣りで作られていた竹根鞭です。耳慣れない人もいるかも知れませんが、竹根鞭は乗馬の鞭、急須の取っ手、カバンや傘のもち手、ステッキなど様々なものに使われる重宝ものでした。実はこの竹根鞭、明治24年(1891年)の大津事件でロシア皇太子に切りつけた犯人を取り押さえる際に使われたことや、チャップリンが愛用していたステッキも草津産と聞きちょっとビックリ。教科書に出てくる歴史や銀幕の大スターと草津がつながっているとことを知ると急に身近に感じるものだから不思議です。

矢倉と立木神社のつながり

若宮神社  さて東海道に別れを告げ琵琶湖へと向かう矢橋道へ。約3km先には「矢橋の帰帆」で知られる矢橋港があります。「勢多を廻れば三里の回りござれ矢橋の船に乗ろ」と多くの人が舟で大津に渡りました。この矢橋道も今はJRでいったん分断されているので、今回は少し回り道をして先へ進みます。JRをくぐると森につつまれた若宮八幡神社です。暑さで少しバテ気味だったせいか、木陰をつくる木々のにおいにホッとします。この若宮八幡神社は市内7か所で残っているサンヤレ踊りが奉納される神社となっています。

 少し前には森だったという住宅地を抜けると「大塚」、その名のとおり大きな塚があったことに由来した地です。フェンス越しに見えるこんもりとした塚は立木神社の宮司を代々勤めてきた小野家の墓です。立木神社は草津村と矢倉村の氏神で、767年の創建以来、小野家は38代にわたり宮司を勤めてきました。第38代神官である小野秀圓の子は日本新聞学会の設立に尽力し、ジャーナリズム研究の先駆者として有名な小野秀雄さんです。

不思議なお地蔵さん

猿田彦神社  光泉高校の裏手を歩いていくと北川(別名「子守川」)にかかる子守橋に来ました。この地には治郎兵衛地蔵の言い伝えが残ります。天井川だった北川では氾濫や疫病が続き、この村の治郎兵衛さんが代表して金毘羅参りをすることになりました。その帰り道、摂津の国の地蔵堂で休んでいると「村を助けてやるから、わたしをおぶって行きなさい」と地蔵さまに命じられます。不思議なことに石のお地蔵さまは何故か軽くて、この地まで運ぶことができ、それ以来、村には水害や疫病がなくなったとのこと。

 子守橋を瀬田方面に渡ると、左手には江戸時代に創建された猿田彦神社。「街道の神・旅の安全を守る神」として有名な猿田彦神社ですから、矢橋道と瀬田から矢倉へ続く古道との交差点であるこの地にあるのも納得です。本殿の周囲をぐるりと回ると冒頭の「右離れ立葵」の軒丸瓦。でも時代により少しずつデザインが変わっており、じっくり見るとまちがい探しのように見つける楽しさも。木立を渡る清々しい風を感じながら神社を散策してみてはいかがでしょう。

過去と未来の交差点

浮世絵「野路の玉川」  北川に沿って南草津駅に出るとなんだか一気に現実に引き戻された気になります。駅前広場にある「夢・希望・未来」のモニュメントのとおり、ここの表情はまさしく新しい草津の一面なのだと感じます。国道へと向かうゆるやかな弧を描く歩道横に安藤広重の浮世絵「野路の玉川」が描かれたスチール版を発見。そう、そこは矢倉のお隣のまち玉川、このあたりの東海道は松並木が続いていたという風景が信じられないくらいの時代の流れで、それはまるでタイムスリップしたかのよう。
 今回歩いた矢倉から矢橋道には、あちらこちらで言い伝えやいわれが残り、現在まで語り継がれています。お話に耳を傾け当時の情景を思い浮かべながら歩くと、目の前にある風景にも奥行きを感じることができます。東海道と矢橋道の分岐点にある道標は、するりと過去へ出かけられる草津のパワースポットなのかもしれませんね。

コラム 「決闘!矢橋街道」

 矢橋街道ではこんなあだ討ちのお話も伝わります。

 文政9(1826)年、備中(岡山県)で相撲頭取の力右衛門が弟子の岩之助とその仲間に切られる事件があった。力右衛門の弟・光蔵や弟子たちは備中からいなくなった岩之助を捜し続け、やっと草津宿で駕籠かきをしている姿を見つけ、10年後の天保7年(1836)にあだ討ちを決行した。芸者を連れ立ち大津への道中、相撲取りの大男たちが刀を振り回しての立ち回りは矢橋街道が舞台となり地元にも伝わり『膳所藩郡方日記』にも記されている。  -草津市史のひろば増補版「くさつこぼればな史」より-

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