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まちサポくさつ (公財)草津市コミュニティ事業団

ゆっくり草津 街道物語

12.明日の幸せを素朴に願う 【追分】

活人石と姥餅焼

追分1  今回のスタート地点、追分会館を伯母川に向かうと新しい家々が立ち並ぶ住宅地が開けます。このあたりは大将軍遺跡といわれ、奈良~平安時代の建物や井戸の跡、絵馬や土器などが多く出土しました。近くからは約20m幅の道の跡が確認され、役所があったと考えられています。近江では瀬田に国庁が、また栗東の岡に郡役所が置かれていました。この下に置かれる郷の役所がここ追分にもあったのでしょう。

 八幡神社では深い森と木々の間から聞こえる鳥の声が私たちを出迎えてくれました。平安時代に建立され、追分の守り神として応神天皇がまつられています。室町時代にはこの辺りの領主だった宇野氏が武神として崇め、戦国期には下賀茂神社の材料を使って社殿が造られましたが明治に焼失しました。江戸のころにはもっと広い森に囲まれていたという八幡さんも、現在ではすぐ近くまで住宅地が迫っています。再建された社殿の前にある「寛政」の文字が刻まれた石造りの常夜灯が歴史の深さを今に伝えています。神の使いであるハトの石造に見送られ新幹線の高架下の道を歩きます。

 「十四代金澤」と趣ある字で書かれた看板を掲げた酒屋さんに着きました。店先に栗の木の化石といわれる「活人石」があります。字のごとく、人を元気にさせるというこの化石、江戸時代の『東海道名所図会』では、駒井家(現在の脇本陣)の床の間に飾られ客人をもてなす様子が描かれています。ここ金澤家の先祖である金澤好澄は茶人である傍ら、宿場名物「うばがもち」をのせる姥餅焼の皿をつくり旅人の目を楽しませました。今では焼く人もいなくなってしまいましたが、この姥餅焼の皿や壺は草津宿街道交流館で見ることができます。

野の神さまと大切な牛

野上さんの牛  金澤酒店から少し下ってみましょう。追分グラウンドの隣に野上池、その先には中池、下北池と三つの池が並びます。野上池を少し入ったところにあるのが野上神社です。ここはその字が示すとおり野の神さまです。春になると山の神がおりてきて田の神になるとのいわれから、「野上さん」として地元の人々に大切にされてきました。
 農作業の大切な労力として牛が大活躍していたころのお話。五月の節句になると、大切な牛が元気でよく働いてくれるようにと野上さんで祈願していました。お参りの前には野上池で牛の足を洗っていたそうです。またこの辺りでは「牛が病気をせず元気に過ごす」との言い伝えから、お祭りにお供えしたチマキのお下がりを牛に食べさせる風習もありました。境内には牛の石造、社殿の蛙股にまで牛が彫られているのも納得です。
機械化で牛の姿も消えた今、野上さんの佇まいが地元の人たちの積み重ねてきた暮らしぶりや祈りを伝えてくれています。遠目でこの神社を見てみると丸い小さな丘の上に神社が建っていることがわかるでしょうか。実はこれは追分古墳。境内にある説明版では直径38mの円墳とあります。出土品から4世紀ごろのもので、草津で最も古い古墳ともいわれています。

石に彫られたお地蔵さん

追分  夏の暑さが厳しかった今年はヒガンバナの花も少し遅れ気味。路地を歩いていると珍しい白いヒガンバナを見つけました。ボランティア仲間の話によると黄色のヒガンバナもあるとか。花の時期には葉がなく、葉がある時期には花がないという珍しい植物ですね。
 こんな話をしているとお寺に着きました。妙源寺です。ここは先ほどの追分の領主、宇野氏の菩提寺です。栗太郡誌によると妙源寺という名前は宇野氏の戒名から付いたというもの、ここにいた妙源尼という尼さんの名から付いたという2つの説があります。境内には北向きにお地蔵さんが集められています。自然の石に彫られていることから室町時代のころに庶民が彫ったものだと考えられています。

 点在する大きな屋敷に驚嘆の声をあげながら行者堂へと向かいます。行者堂は草津ではここ追分のほか、本町や横町でも見られます。追分の行者堂は左に不動明王、右に役小角がまつられていますが蔵王権現や孔雀明王がまつられている行者堂もあります。江戸の終わりから昭和の始めまで、庶民の間で奈良県吉野の大峰山にお参りする修行が盛んに行われました。どこの行者堂にもお参りのしるしであるわらじが下がっています。最近はお参りする人も高齢化し、さすがに大峰山まで登ることはないようですが護摩焚きは今も行われています。境内に高いタラヨウの木を見つけました。葉の裏に字を書くと浮かび上がるタラヨウは「葉書の木・郵便局の木」とも言われ、渋川の草津郵便局でも見ることができます。

平和への祈り

平和モニュメント  ここから今日の最終地であるロクハ公園まで車で移動です。「ロクハ」という名前に素朴な疑問を持っている人もいるのではないでしょうか。昔、ここにはたくさんの松があり、その松の緑が波のように見えたことから「緑の波=ろくは」と呼ばれるようになりました。江戸時代、山本喜六氏が草津村・矢倉村の灌漑用水として開削したロクハ池は現在、上水道の貯水池として利用されています。
 芝生広場の入口に平和モニュメントがあります。沖縄の彫刻家である金城実氏が制作したたものです。またこのモニュメントの土台となっている大きな石は新名神の工事に出てきたもので、碑には「愛こそ平和をかなえる」と刻まれました。表に戦争が始まった12月8日、裏には終戦となった8月15日の日付が記され、碑の下には千羽鶴や未来へのメッセージ、あおばなの種など平和への願いが込められたタイムカプセルが眠っています。モニュメントの向こうに広がる青い芝生、そこで遊びまわる子どもと見守る親…こんな光景を見てると、この平和な時間がずっと続いてもらいたいと感じずにはいられません。

 追分をぐるりと歩いた今回の街道物語、そこには人やモノの出入りが盛んだった宿場町から少し離れ、田や畑を中心とした暮らしがあったこと、その暮らしのすぐ隣に神社やお寺があって、明日の幸せを願う素朴な信仰があったことを感じとることができ、しみじみとうれしくなりました。

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