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まちサポくさつ (公財)草津市コミュニティ事業団

ゆっくり草津 街道物語

6.篤姫と草津宿

篤姫も泊まった草津宿

草津宿本陣  篤姫が 代将軍家定に嫁ぐべく薩摩を発ったのは、ペリー来航(嘉永6年6月)の2カ月半後の8月21日。 10月2日近衛家に参殿、6日伏見出立、江戸到着は10月29日でした。伏見~草津は一日の距離、あるいは国史跡草津宿本陣(七左衛門本陣)の大福帳に記載されているのでは…と調べていただいたところ、嘉永6年(1853)の大福帳に

   10月6日 伏見立
   薩州御姫君様 御泊 九蔵 

と記載されていました。篤姫(19歳)は草津宿に泊まっていたのです。
 九蔵とは、江戸時代2軒あった本陣の1軒、田中九蔵本陣。間口は現在の脇本陣の隣から「京八」さんまで、奥行きは一筋東の通りまでありました。七左衛門本陣の大福帳は他家への宿泊や通行も記録されていて貴重な資料となっています。

波乱の人生

本陣  九蔵本陣は、後に皇女和宮の夫君家茂(上洛時)や、かつての許婚有栖川宮熾仁親王(東征時)も利用しています。明治3年(1870)の本陣廃止後、この地に草津小学校の前身「知新学校」が建てられました。
 家定は、天保2年(1841)に迎えた正室鷹司家の有姫が亡くなったため、嘉永2年(1849)一条家の寿明姫を正室に迎えますが僅か6カ月余り後に亡くなります。

 篤姫を三度目の正室への話は、虚弱な公家の姫君より武家の娘をとの期待と養父斉彬の幕府内での力も影響したと思われます。有姫、寿明姫はともに七左衛門本陣に泊まっていて、寿明姫お泊りに際しては本陣の屋敷絵図や草津川仮橋の図なども残り、準備の大変さが偲ばれます。

 篤姫の婚儀は、ペリーの再来、安政地震、御所火災などで遅れ、3年後の安政3年(1856)に行われました。1年7カ月後家定死去。篤姫は天璋院と称し大奥の責任者となっていきます。後に 代家茂に降嫁した皇女和宮とは様々な確執の末、幕府崩壊に際し二人して徳川家存続に向け、敵となる実家(薩摩藩、朝廷)へ働きかけるのでした。二人は、徳川家存続・江戸無血開城の陰の功労者とされています。

歴史の足跡をたどって

追分道標  本陣大福帳には皇女和宮(静寛院宮)も文久元年(1861)の降嫁、明治2年(1869)の帰京、明治7年(1874)の東京行が記載されていて、明治7年の記載は180冊ある大福帳最後の1ページとして知られます。また、慶応4年(1868)徳川家存続の宮の手紙を朝廷に届けるため動乱の東海道を上下した土御門藤子も“御上臈 お婦知様”と大福帳に4度記載されているのが確認されています。

 東海道中山道が分岐合流する草津宿。雨が降ると水量が増す暴れ川の天井川、分岐を示す道標、本陣やかつての面影を残す民家など…。
 草津を通過した歴史上の人物に思いを馳せながらゆっくりと草津を歩いてみませんか、きっと何かが見えてきます。
          (石田はま子)

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