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まちサポくさつ (公財)草津市コミュニティ事業団

ゆっくり草津 街道物語

5.野路の散策

清水が湧き出た地

 野路を流れる十禅寺川は田上山系を水源とし琵琶湖へと注ぎ、堤防沿いは地元の老人会のみなさんにより萩の花が植えられました。中央にある野路玉川ポケットパークは平成5年に整備され、『千載和歌集(平安)』に、源俊頼により詠われた

 あすもこん 野路の玉川  萩こえて
   色なる浪に 月やどりけり

の歌碑とともに、かつて玉のような清水が湧き出たこの地を今に伝えてくれます。中世の旅人に憩いと潤いを与えてくれた野路の様子を伝える浮世絵や名所図会には、弁天池から新宮神社のお旅所まで松並木が続いていたことが描かれてますが今は見ることができません。

語り継がれる「子守地蔵」のおはなし

 東海道沿いを歩くと6体のお地蔵さんがまつってある子守地蔵に出会いました。この子守り地蔵は、「江戸時代に、カブトムシをつかまえようと大名行列を横切り、手打ちになった親子の菩提を弔うため、村人たちが地蔵をまつった」という野路の民話が語り継がれています。このお地蔵さんたちを守ってきたお夏さんは毎年地蔵盆には甘酒をつくり、お参りに来た人たちに振舞ってくれたと地元の人に聞きました。
 こうして地元の人たちに大切にまつられ、赤や黄色の前掛けをかけ、白く化粧をしたお地蔵さんは、この前を通学する子どもたちを今も優しく見守ってくれています。

 旅人や馬が歩いたであろうこのあたりは、東海道の街道の香りが残っていて、新築された家でも、なぜか懐かしさを感じさせてくれる風景を醸しています。
 八幡宮跡である願林寺の隣の空き地は、村の中央に位置し、当時は村のお祭でにぎわいながら、戦時中は軍人の演習などにも使用されたとのことでした。

街道を矢倉へ

思わず歩きたくなる小道が、野路にはたくさ  街道から路地に入ると、八左衛門の碑があります。野路の庄屋・深尾八左衛門は1851年に水不足に悩む野路の田畑のために私財を投げ打ち、3年がかりで八左衛門池と言われるため池をつくりました。この功績を認められ、膳所藩から贈られたのがこの石碑です。石碑の隣にある古い柿の木には、セッコクが着生しています。セッコクは岩場や老木に自生し、初夏には白い花が咲きます。

 さて街道に戻り、清宗塚を代々守ってきた遠藤家に向かいます。壇ノ浦の合戦で敗れた平家の総大将である平宗盛の嫡男・平清宗は、この野路で源義経の家来に斬首されました。17歳の若さだったといいます(吾妻鏡より)。
 毎年、清宗の命日である6月21日には遠藤家や草津市観光ボランティアガイドが集まり、供養をしています。遠藤家の敷地には樹齢150年のアベマキと樹齢100年のエノキが並んでそびえたち、どちらも草津市の指定保護樹木です。


 さらに草津方面に歩き、ののみち保育園を過ぎた途端に景色が変わります。矢倉南交差点付近はマンションが立ち並び、一気に現代の風景が目の前に現れます。玉川から歩いてきた野路はこの辺りで終わり、ここから草津宿方面へ続く道は矢倉です。
 矢倉の瓢泉堂前には矢橋道と東海道に分かれる道標があります。松並木が続いていた当時の話のあと、交通量の多いこの辺りを見ると、ずいぶん時代の流れを感じます。徒歩や馬が旅の手段だった時代は一里(4km)ごとに目印となる一里塚がありました。道の両側に大きな木があり目印のほか旅人の休息の場にもなっていました。野路の一里塚跡は現在、野路上北池公園になっています。

野路の守り神

新宮神社境内脇のおかさん道  新宮神社は、天平年間(729~766)に僧の行基により創建されました。境内の脇には鎌倉道・東海道につながる「おかさん道」と呼ばれる森に囲まれた静かな小道があります。本殿は重要文化財に指定され、水門は膳所城の二の丸水門を移築した歴史と由緒ある神社です。昔から新宮神社は野路神社とも呼ばれ、野路の守り神と言われています。

地域に伝わる数々のおはなし

 玉川山 常徳寺の山門は県内でもここだけといわれる禅宗様式の山門で、まるで龍宮城のような様子です。山門の前の「不許葷酒入山門」(クンシュサンモンニイルヲユルサズ)と彫られた戒壇石は山田の薬師院にもあります。ちなみに葷とはネギ、ニラ、ニンニクなどの匂いの強い野菜や肉を言うそうです。
 腰をかがめて門をくぐると石仏が並び、どのお地蔵さまもにこやかな顔をして参詣者を迎えてくれます。お堂には佐々木高綱が弥市の供養のために彫ったとされる観音像が安置されています。
(下段「“すっとびの弥市”と白い萩」参照)

 今回の「街道物語」では、この野路玉川という地が中世の草津の中心だったことを知ることができました。江戸時代ににぎわった草津宿より古い野路宿は、今でも地元に伝わる話がいくつか残されています。これらの話は時代が変わっても野路玉川という地が代々大切にしてきたものを感じることができます。目に見えるものだけでなく人々の記憶に残り、伝わるものを地域の宝物として大切にする心が野路玉川には伝わっているのですね。

コラム“すっとびの弥市”と白い萩

萩の花  源頼朝の旗揚げに参加しようとした佐々木高綱は、脚を痛めた自分の馬の代わりに馬子の弥市の馬を「野洲川まで」という約束で取り上げ、走ってついてきた弥市を挙句の果てに切り殺してしまう。高綱は源頼朝の軍に加わり、功績をあげたことで近江の国守となった数年後、弥市の亡霊に取り付かれ痩せこけてしまう。そんなとき高綱は年老いた僧に3つのつとめを果たすよう教えられた。
 1つめは弥市と馬の霊を慰めるため、玉川に白い萩を植えて包むこと。2つめは寺を建立し、自ら彫った観音像を安置してお経を唱えること。3つめは弥市の遺族に所領を与え、暮らし向きがたちゆくようにすること。
 高綱はこの教えを守ったため、うそのように病が治ったそうである。高綱が刻んだ木像は「弥市観音」と呼ばれ、現在の常徳寺に移され安置されている。             (「草津のかたりぐさ むかしのおはなし」より)

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